栗生沢の村行事・祭
2013年07月18日
垂れ幕の左側にボロボロになりながらも今もって大切に飾られる垂れ幕の奉納者、読んでみよう。
明治34年(西暦1901年)辛丑(しんちゅう)6月12日
*干支の意味で60年ごとに、次回は西暦2021年になる。
明治34年生まれは、今生きているとすれば112才。この年は昭和天皇が生まれた年、翌年には日英同盟が結ばれ、翌々年には日清戦争が勃発した。そんな年です。
湯田留次
神社入り口の左側、中村屋さんの隣(近年自宅全焼)湯田徳衛門、おきよ、湯田利男の先祖。屋号?
同 市作
タバコ屋の3軒手前、湯田太一郎、湯田良子の先祖。屋号「太田屋」
同 寅吉
湯田盛、湯田盛吉、屋号?
同 新作
なんと私のご先祖様だった!湯田一吉、湯田孝芳。屋号「橋本屋」
左三つ巴(神社)
このマーク(紋)は、水を表し「防火」のまじない紋として、神社仏閣の瓦等に多く利用されている物。
火伏せ信仰の象徴なのだ。
角立ち四つ目
そして、これが部落の紋所「角立ち四つ目」と呼ばれている湯田家の家紋です。斜めに細く十字架を隠しながら、この紋所の意味する「団結」を表している。
(お願い)
私が書き綴るこのブログで、間違っているもの、または私が知らなかった物などが、有りましたら、教えて下さい。栗生沢を後にして45年がたち、遠隔地でしかも、乏しい資料の中、がんばって書き上げていることを考慮して頂き、間違い、訂正は大歓迎でお受けいたします。 湯田孝次
2012年06月07日
2010年05月21日
※例年6月の第2日曜日となっているらしい。
前日が前夜祭となっていたのだが、かつてのように夜、神社に拝殿し酒を酌み交わしながら獅子舞を舞うということは無く、当番の者が数名神社に上がり神主からお祓いを受けて終わり、帰宅するそうだ。
お祭り当日は朝9時に村人の主達総員が神社に上がり、五穀豊穣を主とした詔を神主から祓い清め頂いて一連の儀式を済ませると、10時からいよいよ三匹獅子が登場・演舞となる。見たい人は朝10時までに村の神社まで詣でてください。
午前中に演舞の前庭が神社に奉納されると、
午後1時からは、クライマックスとなる後庭が
お党家の庭で演じられる。今年は村の駐車場にて上演される。(馬車屋の前)
雨が降らなければ良いが…………。
懐古と出会い だ
2008年12月12日
正月14日頃だったと思うが、夕方からツチンボ(わら打ちの棒)に縄を付けて家の周囲を引いて回った記憶がある。お袋から、これをすると畑に害虫である長虫と蛇が来なくなるという。
「ツチンボのお通りだ、長虫くんなよ、山の神ござれ」と繰り返し歌いながら、夕方の縛れるような寒さだけを強烈に覚えている。このツチンボで地面を叩くと蛇が出なくなると言われ、かじかんだ手でツチンボを持ち地面を叩きながら家の周りを歩いたものだ。あれは何だったんだろうと、そして子供の次男の俺が何故?と。辛くイヤな行事だったが家のことを思うと願いを込めながら必死になって歌いながらツチンボのお通りを行っていた。他の家でもやっていたのだろうか?、それとも我が家だけだったのだろうか?
2008年12月05日
水無川の上流にある栗生沢村。なぜか5月5日の端午の節句に鯉のぼりを揚げないのだ。水もこの日は飲んではダメという。このいわれは、いにしえよりの習慣だ。鯉のぼりは田島町にある中学校へ通うようになって初めて目にしたものだ。
亡き父親からの話によると、この日に田島のほうで歓声があがり、これを援軍だと思ってのぼりを揚げたが、実は官軍だった。この官軍に気づかれ押し攻められた故、会津軍は山中に逃げ込み上流から毒を川に流したそうな。。。それゆえ、鯉のぼりをあげることと、この日は水を飲むことが禁止という、この慣わしが今日まで残っているのだという。
確かに戊辰戦争における栗生沢の戦いの記録はある。(記録「会津戊辰戦争百話第七十一話」より)。ただし、期日は9月10日、これは今日の10月10日にあたるので、話とは時期が合わない。
他村の「鯉のぼりを揚げない村・地域」を探る。
福島県南会津町栗生沢村以外では、栃木県の湯西川村、埼玉県の神泉村がある。栃木の湯西川では似たような話で「平家落人伝説」として今に残っており、また埼玉の神泉村でも似たような話で「平将門伝説」が有り、ともに今日でも鯉のぼりを揚げない習慣を今に残している。栗生沢、湯西川、神泉の3カ所では、鯉のぼりは「不吉」を呼ぶという慣わしを抱えているのだ。この3村の共通点は何か。ただ言えることは、ともに平家に関する流れを持っていること。栗生沢も先祖は平家落人の可能性が高いと言うことだろうか。火の無いところに煙は立たないとも言うので、その可能性はとても高い。ただ伝説ゆえ、それらを正す根拠がない。
2008年10月02日
稲刈り、天日干し、脱穀が終わった秋も終わりの頃、村中央にある分校の敷地で、村の子供、若者を中心とした村相撲が奉納されていた。あの寒さを思い出すときっと10月末か11月初旬の頃だったように思われる。
大量に集められた柴木に火が付けられ2〜3mもの火炎をあげながら、その明かりと暖のもと裸になり、幾番となく相撲が続けられていた光景を思い出す。子供達はそれぞれが事前にペアーを組み、1番だけの相撲。勝ち負けに関係なく褒美は柿2個。これが欲しくて出場したものだ。呼び出し、行事などもしっかりしていて本物の様。出場する若者達の四股名は村周囲を取り囲む山河の名が付けられていた。若者達の相撲は、これは大変である。序盤は3人抜きだ。これは早々に勝者が決まるが、本番の5人抜きは、壮絶。勝敗の決着がつくまで延々と続けられる。深夜に及ぶこともしばしば。将に大相撲だ。よって本当に強い足腰と体力、そしてスタミナを持った者だけが勝ち得る、真の強者すなわち村の絶対王者選定相撲となっていた。翌日はきっと足腰が立たず体が壊れる一歩手前の状態の心地良さに浸っていたことだろう。
この相撲奉納が終わると村は長い厳冬に埋もれていく。